容姿に異常に執着する私がセラミック矯正を試みた話

私は前歯が大きくて出ているのがコンプレックスだった。別にそこまで病的に出ているわけでもなく、それでいじめられたことがあるわけでもないが、小学生時代男子に口を引いて笑った時の表情を真似されてからかわれたのをずっと覚えている。それ以来笑う時に思いっきり口を引かないように気を付けた。口を開けて笑うことに抵抗があって、意識しないで口を開けて笑うといつもこわばっているような顔になり、それが嫌でたまらなかった。いつも手で口を隠して笑っていた。結婚相談所とかの写真撮影で、自分のコントロール可能な最大限まで笑ってるにもかかわらず「歯を見せて笑って」「もっとイーッてして」としつこく言われるのでブチ切れそうになっていた。

 

お金ができて、裏側矯正を検討したが、上顎に金具を打ち込まなければならないと聞いてフェラできないじゃんと思ってやめた。また、矯正が終わってもマウスピースを付けておかなければならず食事のたびに外して歯磨きしてから付け直さないといけないと聞いて、日常生活に即して考えるとあまりにも非現実的だと思えた。

 

その後セラミック矯正というものを知った。50万のお金はなかったが、分割払いやリボ払いをしてでも、20代がもうそろそろ終わろうとしている今のうちにやっておきたいと思った。先行投資というほどではないが、20代のうちに、完璧な装備を整えておきたいと思った。


治療の当日は、もう自分の歯ではなくなるのだ、他人の歯(ではないが)になるのだと思うと現実感がなくふわふわした感じがした。これによって私の顔は完璧になるのだ、容姿のコンプレックスによる悩み苦しみが何もなくなるのだと思うとまるで自分が無感情無機質な存在になってベルトコンベアに乗って運ばれて行くような感じがした。これ以降は肌などメンテにのみお金をかけられるんだと思った。ずっとコンプレックスで苦しんできた自分の前歯だが、もう別れると思うと情が湧いてくるような気がした。

 

セラミック矯正ではまず自分の歯を削って、希望の形で仮歯というものを作って装着し、セラミックの本歯が完成したら、それを装着する。

 

仮歯を入れて麻酔がひいた後の自分の顔を見て、ショックを受けた。唇が変わっている。前歯が奥に引っ込んだせいか、上唇がつぶれて横に広がって口が全体的に大きくなったように見える。

 

そこまで出っ歯というわけではなかったため、いわゆる出っ歯の人が口ゴボになってるのがEラインの内側に引っ込むように、唇の形が変わるというのを想定していなかったのだ。

 

元々私は唇が若干外に向かってほんのり開き気味になっているような、幼くあどけないような唇をしていた。それが前歯が奥に引っ込んだせいで、上唇の子供がふてくされてるみたいにツンと外側にまくれ上がって山の部分が盛り上がったような感じがなくなって、平べったくなってしまった。それだけではない、よく見ると、下唇のぽってりした感じ、拳を顎に当てて上目遣いの表情をしているオードリー・ヘップバーンの写真(分かるだろうか?)のように下唇の幅が上唇よりも厚くなって四角く出ている感じがなくなり、上唇よりも奥に引っ込んでいた。よく考えてみると、大きめの前歯の下の部分で下唇が押し出されていたせいであることが分かった。それは私のぼにょんとした顔と合っていた。その口元があったからこそ、私はお得意のポーカーフェイスができ、小生意気な態度を取ることができていたのだった。

 

しかも口の周りが全体的にこけ、法令線のあたりに窪みが感じられるように思え、ゴリラみたいな感じになっていた。

 

笑った口元も想像していたように美しくはなっていなかった。笑顔の問題は、頬の筋肉や口の開き方によるものだと分かった。

 

そして気付いた。あの歯あってこその私の顔だったんだ。開いた唇からのぞく二本の前歯は、リスみたいで可愛くなかったであろうか。口元がコンプレックスであるがゆえに恥ずかしそうに俯いて笑う私は、可愛くなかったであろうか。

 

私は仮歯を元の歯並びに修正してもらうことに決めた。50万かけて自分の歯を削って、それで元の歯の形に人工の歯を作ってもらうなんてナンセンスかもしれないが、私のミスで自分の顔を失って、また50万かけて取り戻すと思えば安くない。先生に懇願していくらでも払うからと言おう、そのためには風俗でもなんでもしよう。

 

翌日すぐに病院に連絡を取り、その日のうちに予約を取った。先生に涙を流しながら訴えた。元の顔に戻してください。歯のことはどうでもいいので、元の唇の形に戻してください。私は元々理想の唇の形だったんです。

 

先生は対応してくれたが、ねじれだけでも治した状態にする?と聞かれた。左の前歯が微妙に外側に向かってねじれていたのだ。治すことによって唇の形に影響があるかはやってみないと分からないとのことだったので、とりあえず治した状態でと頼んだ。

 

その際に、麻酔が切れるまで二、三日時間がかかり麻酔が切れるまでは鼻の下の部分に血が流れてないので膨らんだような感じになっている、という説明も受けた。それで鼻の下が膨らんで上唇の上のラインがツンと尖ったような感じにならず、法令線のあたりに窪みができてゴリラみたいな感じになってるのだと分かった。

 

帰宅して、下唇は元の厚みに戻ったが、左の前歯のねじれがあったからこそ唇を閉じてもそこの部分に若干隙間ができて開き気味な印象になっていたんだと分かった。ねじれを治したせいで、唇がしっかり閉じた状態になってしまって可愛くなくなっていた。鼻の下の膨らみもなかなか戻らなかった。

 

前歯のねじれを戻してもらうべく、再び病院に電話をかけた。その日は月曜だったのだが、次に予約を取れるのは週末の土曜だと言われた。ほんとにその日まで空いてないんですか?顔が変わっちゃって困ってるんですけど。と思わず取り乱して抗議してしまった。

 

こういう時いつもやるように神様、と語りかけようとしたが、もう神様にも縋れなくなっていることに気が付いた。そうか、神様の作った形を変えたから、神様の庇護の元を離れたんだ。

 

顔が元に戻らなかったら死のうと思った。死ぬなんて大げさだとも思ったし、世の中の価値が美だけではないのも知っていた。私の大好きな恋人は、たとえ私の顔が変わっても私を愛してくれるであろうことも知っていた。でも、もし死ななければ、今まで美をこの上ない価値として重んじてきた生き方とつじつまが合わないと思った。

 

その週は、前半はマスクをして過ごした。可愛くないのなら私ではない、可愛くない私は…私ではない別の何者かだ。その週は美容関係の用事もパパとのデートも、何も手に付けられないような気がした。だって、これから私が、私として存続するかどうか分からないんだもの。それなりに愉快なこともあり、歯のことを忘れる瞬間もあったが、そのたびに、美しくないのに楽しい気持ちになるなんて不遜だ、と思い我に返った。マスクで顔を隠した今の私は、少なくとも「私」ではなく、もしかしたら来週「私」に戻らないかもしれない、名前のない中有に浮いた魂のような宙ぶらりんな存在に思えた。

 

私は仕事の都合で早めに出社するのだが、誰もいないお手洗いで全身鏡の前に長い間立ちつくし、泣きそうになりながら自分の顔を見つめて許しを乞うた。

ごめんね。もうしないから、元に戻すから、ゆるしておくれ。もし戻らなかったら…私は死のう。

 

私は悟った。いつか口元がコンプレックスであることを、武器にしていたということを。私は歯を見せて笑えないから、無意識の内に、口を閉じた状態の微笑でいかに相手を魅了させられるかを自分の中で極めていたということ。どうしても口を開けて笑った方がいいような場合でも、最小限の口の開きで、目の細め方、首を傾ける角度によって、一番効果的な表情を生み出していたということ。大笑いするような場合は、口を手で軽く覆いながら目を大げさにしわくちゃにして天真爛漫さを表現し、あるいは大げさに俯いてエロスを表現していたということ。

 

幸いなことに、予約の日が近付くにつれて鼻の下の膨らみが引いていき顔の下半分が正常な状態に戻っていった。昨日ねじれを戻してもらったので、数日のうちには元の唇に戻るであろうと信じている。


(8/26)