令和6年3月文楽入門公演「BUNRAKU 1st SESSION」

有楽町よみうりホールに令和6年3月文楽入門公演「BUNRAKU 1st SESSION」を観に行った。大道具の替わりにアニメーションの背景美術を用いて、曽根崎心中の「天神森の段」を上演するという企画。

私は文楽国立劇場で一度観たことがあるきりだが、今回のジブリを彷彿とさせるアニメーションはちょっと文楽の世界とそぐわないのではないかなと思った。また、入門公演と謳っている通り、初心者向けで、おそらく外国人もターゲットとして見込んでいるらしく、解説30分・上演30分という非常にコンパクトな構成で、私としては物足りなかった。しかし、曽根崎心中の美しい名文は知っていてぜひ文楽で聴きたいと思っていたので、聴けたのはよかった。

「この世の名残り、夜も名残り、死に行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜、一足づつに消えて行く、夢の夢こそ哀れなれ。 あれ数ふれば、暁の、七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生の、鐘の響きの聞き納め、寂滅為楽と響くなり。」

もうなんか、美しすぎるというか、日本語の精緻を集めたような名文だよね。ぞわっと鳥肌が立つというか、これだけで涙が出てくる。

調べてみたら、曽根崎心中文楽の床本は、近松の原作の浄瑠璃から少し改変されていて、詞章が省略されたり変更されたりしているらしい。たしかに、原作の浄瑠璃では二人の最期は「いとし、かはいと締めて寝し、肌に刃が当てられうかと、眼もくらみ、手も震ひ、突くとはすれど、切先は、あなたへ外れ、こなたへ逸れ、二、三度ひらめく剣の刃」とリアルで凄惨な描写であったはずだから、今回その描写がないのを不思議に思っていた。あと、最後の一文が、浄瑠璃では「未来成仏疑ひなき、恋の手本となりにけり」となっているのが、文楽の床本では、「長き夢路を曾根崎の、森の雫と散りにけり」となっている。私は絶対「未来成仏疑ひなき、恋の手本となりにけり」の方がいいと思うし、これを「恋の手本」と言った近松を称賛したいね。

ロビーに文楽についての説明のパネルがあったが、文楽の人形の構造を見るたびに、頭と手と足ばかりで中身は空洞で実体がなく、人形というものの性質をよく表しているなと思う。「私の体は文楽の人形」という木嶋佳苗の言葉を思い出すし、寺山修司の「中国の不思議な役人」で兄が妹を捕えようとすると少女の等身大人形の手足と胴がそれぞれのパーツを支えている役者達によって一瞬でバラバラになるシーンを思い出す。