METライブビューイング2023-24「カルメン」

METライブビューイング2023-24「カルメン」鑑賞。1820年頃のセヴィリアから現代のアメリカに舞台を移し、弱冠27歳のアイグル・アクメトチナが歌うカルメンの若々しい魅力には圧倒された。タンクトップと太腿丸出しのショートデニムに工場の作業服を羽織った、全く新しいギャルのカルメン

演出も、インタビューでも語っていた通り、心理面を掘り下げ、従来型の「真面目で純朴な男を魔性の女が誘惑し破滅させる物語」ではなく、カルメンをトラウマを抱えた女性として描いたのが新しかった。

ホセも純情な男性であるかのようによく描かれてるけど、メリメの原作では、「私はハイアライに夢中になりすぎました。これが私の身を誤らせたのでした。ハイアライをやっていると、私たちナヴァレの人間は、何もかも忘れてしまうのです。ある日私が試合に勝つと、アルヴァの若者が喧嘩を売ってきました。私たちはマキラ(バスク人が用いる鉄輪のはまった棍棒)をふるって勝負をしましたが、今度も勝ったのは私でした。ただこのために、私は故郷を捨てなければなりませんでした」と書いてある。オペラでも、ホセが隊長に語る身の上話は省略されることが多いけれど、故郷で不祥事(傷害事件)を起こし、故郷を追われるようにしてセヴィリアに来ていることは暗示されている。

つまりホセは暴力性を秘めた男であって、その暴力性がカルメンによって引き出されてしまう。という感じだと思う。

今回の公演では第1幕〜第4幕それぞれで幕が上がる前にヴェールの向こうにカルメンを思わせる女性の影が、囚われているような、救いを求めているようなポーズで映るのも、演出の意図を聞いて納得がいった。

また、指揮者のインタビューで「ハバネラ」は半音階ずつ下がることで男性を誘惑するような感じになっている、と言っていて新しい発見があった。自分にとって快い(好きな)音楽、そうでもない(別に好みではない)音楽ってちゃんと分かれていて、私は音階とか短調長調とかの音楽の勉強を全くしてないのだけど、そういうことが分かれば音楽で感じる生理的な快さって理論で説明がつくんだろうなと思った。

藤原歌劇団「ファウスト」(2024年2月)

東京文化会館藤原歌劇団の「ファウスト」を鑑賞。

私は原作でもメフィストフェレスのちょっとコミカルで皮肉屋なキャラクターが好きなんだよね。オペラでもメフィストフェレスファウストの前に現れる場面の「膨らんだ財布に豪華なマント 要するに私は本物の紳士ですぞ!」「このような扱いはいけませんねーー悪魔をわざわざこんなに遠くから呼び出しておいて追い返すなんて!」などの台詞が楽しい。

私が印象的に感じたのは、メフィストフェレスがマルグリートの姿をファウストに見せる場面。ここは、台本通りなら糸を紡ぐマルグリートの姿が現れるところだが、後ろのスクリーンにはルネサンス期のような絵画の女性の目元の部分、眼差しのみがクローズアップして映し出され、それを見たファウストが「欲しい」と胸を打たれる。永遠の美、青春というものへの憧れをよく表現した演出だったと思う。

ちなみに英国ロイヤル・オペラ2019年日本公演の「ファウスト」では体を洗うマルグリートの姿がスクリーンに映し出されていましたね。なにも台本通りでなくてもいいんだ。

もう一つは、ワルプルギスの夜のバレエの場面。このバレエの場面は省略されることもあるらしく、上演される場合も演出によって色々なパターンがあるのかもしれないが、今回の藤原歌劇団の演出は男女のバレリーナ達が先ほどまで我々が観ていたファウストとマルグリートの物語を縮図のように再現する、マルグリートを思わせるバレリーナが男性バレエダンサーと愛のダンスを踊り、男性に去られ、妊娠し、仲間のバレリーナ達から除け者にされる様子が、バレエのシンプルな振り付けで語られていく。それをじっと眺めているファウスト。いつの間にか、マルグリートもやってきて、自分の運命の縮図をじっと眺めている。という演出であった。

この演出は、先述した英国ロイヤル・オペラ2019年日本公演の、デイヴィッド・マクヴィカーの演出に似ている。このマクヴィカー演出のワルプルギスの夜は、「ジゼル」のウィリを思わせる白いチュチュを着たバレリーナ達が登場し、その中にはマルグリートと同一視されるお腹の大きな妊娠したウィリもいて、マルグリートのウィリは他のウィリ達から嘲笑され虐められる…という惨たらしい演出だった。どちらの演出も、ファウストの良心の呵責をよく表していていいと思う。

グランドシネマ「日本橋」

シネマ歌舞伎でグランドシネマ『日本橋』を鑑賞。これは2014年にも観ているのだけど、ほんとに素晴らしい作品。お孝が自分を「姉さんの人形」になぞらえて葛木を誘惑する場面で人形の映像がオーバーラップするのは余計だったけど(笑)

今回、お孝の最期の「(清葉の笛の音を)迦陵頻伽の迎えと聴き、死出三途を小唄で越します」というような台詞に心が留まり、お孝らしい台詞だなあ、泉鏡花じゃないとこのような美しい台詞は書けないと感動したのだが、あれ?原作の小説にあったっけと思った。

確認してみたけど、やっぱり泉鏡花の原作の小説では、お孝が警察に連行される前に葛木と共にお孝の家で身支度をする猶予を与えられ、そこで共に付き添っていた清葉に後のこと(葛木のこと)を頼んだ後、毒を飲んで自殺するという終わり方で、グランドシネマ『日本橋』の終わり方と違っており、上の台詞はない。ちなみに私は小説のこのお孝が毒を飲む場面で、「茶碗酒が得意の意気や、吻(ほっ)と小さな息をした」という描写が好きだ。

そこでさらに調べてみたら、『日本橋』には泉鏡花が自ら戯曲化したバージョンもあるらしくて(私は小説の方しか読んでいなかった)、戯曲の『日本橋』の方をひもといてみるとグランドシネマ『日本橋』と同じ終わり方になっていたし、上の台詞もあった。「ここで吹いて手向けておくれ、迦陵頻伽の迎えのように、その声を聞きながら、死出三途を小唄で越すよ」

シネマ歌舞伎「海神別荘」

シネマ歌舞伎「海神別荘」、海老蔵(今の團十郎)が公子の役にぴったりだった。若々しくて爽やかで、いかにも王子様然としている感じ。海老蔵の公子は男でありながら男という性別を超越していて、玉三郎の美女ももちろん性別を超越していて、泉鏡花作品の幻想・耽美な感じに、全ての役を男性が演じる歌舞伎という枠組みが合っているのだと思った。美女を本物の女性が演じると生々しさ・現実らしさが出てしまって、今回のような美しさにはならない。

実は「海神別荘」は唐組の劇団員が出演したリーディング公演を観たのみで、ちゃんとした舞台化を観るのは初めてだったんだよね。でも美女が海の中を黒潮騎士に囲まれて海底に連れて行かれる場面は凄い幻想美で、ちょっと涙が出てしまった。ここに伴奏音楽としてハープを合わせるのも玉三郎らしい演出でニクい。

泉鏡花は私の好きな作家で、「海神別荘」も好きな作品なんだけど、泉鏡花のような作家だと自分が小説を読んだ時頭に浮かべたイメージと舞台上で演出されたイメージを比べるのが楽しいよね。私は実をいうと「海神別荘」のあの道中の場面は、僧都が不吉だと感じたように、凄絶な美しさの中にも何か禍々しいような、刑罰を連想させるようなものがなくてはならないと思った。そういうイメージで頭に描いていた。もっとも玉三郎の演出したあの場面は素晴らしかったがね。

高尾山、そして六根清浄と大天狗・小天狗

高尾山薬王院の夏のライトアップに行ってきた。

16時頃八王子で軽く食事してからタクシーでケーブルカーの乗り場(清滝駅)に向かう。タクシーの車窓からお神輿が準備してあるのや法被を着ている人達も見え、どうやら地元の氷川神社のお祭りがあるらしいことが分かった。

ケーブルカーに乗って高尾山駅で降り、薬王院までだらだら登って行く。色々な種類の蝉の声がオーケストラのように降り注ぐ中、道の両脇の燈籠に灯りが点ってえもいわれぬ風景だった。山門には沢山の風鈴が下がって涼しげな音を立てていた。登ってる途中ところどころに「六根清浄」と書かれた石車があったが、山門を入るとその石車のでかいバージョンと大天狗・小天狗の像が立っていて、三遊亭圓生さんの『梅若禮三郎』という落語で、長屋の衆が捕えられた女房おかのを心配して水垢離を取る場面で「さんげさんげ六根罪障、大天狗小天狗、もひとつおまけに中天狗」と唱えているのを思い出した。(※中天狗なんてものはない)これについては、長くなるので、後ほど記述する。

ちょうどライトアップが始まる時間に着いたので、手水舎が青く光っていて綺麗だな〜と眺めてて振り返ったらさっきまでなんともなかった大天狗・小天狗の像が赤と緑の光に染め上げられてて笑った。御本堂の屋根の張り出した部分の龍の彫刻も見事だった。

お寺を出る時に山門のところでたまたま辻説法が始まって、聴けたのもありがたかった。

帰りは高尾山口駅でまたタクシーに乗って八王子駅まで戻ったのだが、タクシーを待っている間中、近くでやっているらしい氷川神社のお祭りのお囃子が聞こえてきた。私、田舎の地元のお祭りって好きなのよねえ。はかなくて、情緒があって。こういうふうに旅先で偶然田舎のお祭りに行き合わせるのが好き。

高尾山に登った時、山道のところどころに「六根清浄」と書かれた石車があり、薬王院にその石車のでかいバージョンと大天狗・小天狗の像が立っていたのを見て。

三遊亭圓生さんの『梅若禮三郎』という落語で、長屋のみんなが捕えられたおかのが早く帰ってくるようお願いするために両国で水垢離を取る場面で、こんなふうに唱えているのを思い出した。

「うううう……おお寒い、寒い、寒い。さあさあさあ、みんな一所懸命やっとくれよ。いいかい。ほらッ。慚愧慚愧(さアんげさアんげ)、六根罪障」
「慚愧慚愧、六根罪障」
「大峰八大(おしめにはったい)、金剛童子
「大峰八大、金剛童子
「大山大聖(おおやまだいしょう)、不動明王(ふウどうみょう)」
「大山大聖、青大将」
「おいおい、だれだい?よけいなことを言っちゃいけない。しっかりやっつくれよ。ほら。大山大聖不動明王
「大山大聖不動明王
「石尊大権現(せエきそんだアいごんげん)
「石尊大権現」
「大天狗(だアいてんぐ)、小天狗」
「大天狗、小天狗」
「もひとつ、おまけに中天狗」
「おい、だれだい?変なことを言ったのは。だめだよ。ふざけねえで、一所懸命やってくれ。いいかい?ほらッ、慚愧慚愧、六根罪障」

それで、「六根清浄」(あるいは六根罪障)とと大天狗・小天狗ってなんか関係があるのかと思って調べてみた。

まず、両国の水垢離だが、江戸時代に寺社参詣を兼ねた物見遊山の旅が増え、その中でも人気の高かったのが大山詣り。大山は山岳信仰の対象とされてきた霊山。大山詣りに行く者は両国橋のたもとの垢離場で水垢離を取り、「さんげさんげ六根罪障〜」を唱えた。(「六根清浄」と唱える場合もある)『梅若禮三郎』に出てくる両国の水垢離はこのことらしい。

もっともこの長屋の連中は、大山詣りに行くわけではないのだが、江戸の年中行事を月順に略説した『東都歳事記』に大山詣りについて、「石尊垢離取(こりとり)、大山参詣の者、大川に出て垢離を取、後禅定す。又重き病ある時は、近隣の者川にひたりて、当社を祈る。」という記述があるので、大山詣りに行くのでなくても、単に病気治癒とか、何か願掛けがある場合でも水垢離をしていたのかもしれない。

「六根清浄」は、心身を清らかな状態にするという意味。山岳信仰における修行の掛け声として使われており、霊山などに登る際、「六根清浄」と唱える。高尾山もまた山岳信仰の山。

そして、大天狗と小天狗についてだが、「さんげさんげ〜」の文句に出てくる石尊大権現、大天狗、小天狗はどれも大山の山頂で祀られ信仰されている存在であった。また、中腹には不動明王も祀られている。大山には色んなものが祀られていたんですね。

高尾山でも、天狗はご本尊の飯縄大権現の眷属(随身)として、多くのご利益をもたらす役割を持っている。高尾山は天狗信仰の霊山としても知られている。

ちなみに私は、『梅若禮三郎』で水垢離が終わった後その中の一人が居酒屋に入って一杯飲んでいたところ、屑屋さんの一行が入ってきて、その屑屋さん達が、大きな声で呼ばれた時はろくなことがない、小さい声で呼ばれた時は儲けがある、などとくだらない話をずーっとしてる間延びしたシーンがすごく好き。

※落語の部分は『圓生の落語1 双蝶々』(河出文庫)から引用しました。

2023年7月 シェ松尾・松濤レストラン

32歳の誕生日だったので、ずっと気になっていたシェ松尾・松濤レストランでディナーした。

大正時代に建てられた洋館の一軒家で、ちょっと早めに着いてしまったのだが、バーのあるウェイティングルームに案内された。置いてある調度品がまさに昔の映画に出てくる邸宅みたい!暖炉の上に高級そうなブランデーが並べてある。落ち着いた暗めのオレンジ色の照明で、キノコ型のランプがあって心惹かれるなと思ったら、後から調べたらエミール・ガレのランプだった。ウェイターさん教えて欲しかった!

庭に面した窓に嵌まっているガラスを眺めて、これ向こう側の景色が歪んで見えるでしょ、なんか昔の昭和とか大正とかの時代のガラスはこういう風に向こう側が歪んで見えるらしいんだけど、今はこういう歪みガラス?ゆらぎガラス?は作れるメーカーがないらしいのよ~などと私がいつものように蘊蓄を垂れていると、お庭の方で食前酒とアミューズを召し上がりませんかといわれる。

庭に案内されると、蔦で覆われた洋館を眺められるように椅子とテーブルが配置されている。庭は小川が流れており、滝までしつらえられており、蚊遣り豚(この時は蚊取り線香は入っていなかった様子)も置かれていて、そんなのを見ながらはしゃいでいるうちにシャンパンとアミューズが運ばれてくる。でかい蚊みたいなのが腕のあたりに来てピシャッとやったけど、それもまた風情である。

中の席に通されたが、サービスプレートも牡丹の模様で和風。

今回のメニューは

無花果のコンポート、野イチゴのソース

本鮪と黒オリーブのタルタル キャビア添え
フルーツトマトのクーリーソース 大葉の芳香

ブルターニュ産 ブルーオマール海老のグリエ
ジロール茸添え マダガスカル産バニラのアロマ

産地厳選 甘鯛の松笠仕立て
冬瓜と旨味を含んだコンソメスープ

お口直しのシャーベット

特選牛ヒレ肉のロッシーニ
数種の付け合わせを添えて

熟成チーズ各種

本日のデザート

珈琲と小菓子

チーズのうちの一つが私の好きなゴルゴンゾーラだったのだが、普通のゴルゴンゾーラと違って少し黄色っぽくてすっごい臭くて美味しかった!フルコースでもなかなかチーズまでいただくことは少ないので嬉しかった。

お酒はシャンパン2杯、白1杯飲んで、赤ワインのボトルを頼もうとなって私の生まれ年のワインがあるかな?とウェイターさんが探してくださったけど残念ながら1991年のものはなく、近い1996年のものがあったので、そちらをいただいた。エチケット(ラベル)は持ち帰らせてくれた。デザートワインまで勧められたのでそちらもいただき、珍しくがっつり飲んでしまうという(^^;

内装もサービスも古典的で重厚で、私の好きなタイプのお店だった。

「THEATER MILANO-Zaオープニングシリーズ COCOON PRODUCTION 2023 少女都市からの呼び声」

THEATER MILANO-Zaオープニングシリーズの「COCOON PRODUCTION 2023 少女都市からの呼び声」観てきた。

「新諸国物語」という1952年からNHKでラジオドラマとして放送された北村寿夫原作の一連の冒険活劇があり、このシリーズドラマの中に「笛吹童子」(1953年放送)と「オテナの塔」(1956年放送)があるらしい。唐さん1940年生まれだから、『少女都市』に出てくるオテナの塔はここから来ているのだろうし、『腰巻お仙』などに出てくる笛吹童子のイメージも、ここから来ているのであろう。実際、『少女都市』ではラジオドラマ「オテナの塔」の主題歌が歌われる。

遠きあら磯紅つばき


島にひとつの塔ありき


昔オテナに築かれて


天の牢獄とよばれたり

というのだが、唐十郎は最後の「天の牢獄」の部分を「乙女の塔とよばれたり」と変えていて、お得意の独自の世界観に落とし込む手法をやっている。