溝口健二『近松物語』

溝口健二近松物語』鑑賞。

実際に起こった姦通事件であるおさん茂兵衛のことは井原西鶴も『好色五人女』で題材にしているが、この『近松物語』は近松門左衛門人形浄瑠璃『大経師昔暦』が原作。

終始映像美が素晴らしい。二人の道行の美しいことといったら。湖に浮かぶ舟の場面も夜の湖を灯りをかかげて心中死体を探す場面もロマンチック。

大枠としては、江戸時代に近松らが文芸作品にした、道ならぬ恋に落ち心中する・あるいは処刑される男女に対する民衆の「あはれ」の感情や哀惜の感情を踏まえていると思う。
しかし『近松物語』では、湖の上でいよいよどうしようもなくなって心中するという時に、茂兵衛から「ずっとお慕い申しておりました」という想いを打ち明けられ、「生きていたくなった」とおさんが変貌する。今まで家父長制の「家」の元に縛られていた封建の世の人形のような女が、「家」の主である夫や「家」を取り巻く環境に理不尽さを覚え(これは歌舞伎でいうところの「憤りの精神」=歌舞伎的感情だが)、男の生身の感情に触れたことによって、一人の女としての自我が芽生え、生きる喜びや愛する喜びが生まれる。
江戸時代の文芸はあまりこうした女の生身の感情を描いてこなかったので、この脚色の部分は溝口健二が伝えたかったことだと思うし、舟の中で茂兵衛の告白を聞きすっくと立ち上がった時の香川京子は、その女の変貌をよく表していたと思う。

途中で別の男女の惨たらしくショッキングな磔の場面が挿入されるが、それとは対照的に、おさんと茂兵衛が刑場へ向かう最後の場面では、ただ穏やかで嬉しげな表情の二人のロマンチックな引き廻しの様子を映し、残酷な処刑の場面を見せることなく終わるのが美しい。

泉鏡花の『海神別荘』で、日本の引き廻しの刑について、八百屋お七の「この女思込みし事なれば、身の窶るる事なくて、毎日ありし昔のごとく、黒髪を結わせて美(うる)わしき風情」という描写を挙げ、「槍で囲み、旗を立て、馬に乗せて市を練るなんて美しい姿だ、得意に思うべきではないのか」「不義の罪で処刑されるのであれば、殺されても恋が叶ってさぞ本望だろう」と言う場面がある。私はこの耽美主義的な精神が好きなので、二人が刑場へ向かう場面になおさら感じ入ったし、途中で挿入される別の男女の引き廻しの場面も、ああ背中合わせに縛られるんだーロマンチックだなーと思って観ていた。

八月納涼歌舞伎第三部「東海道中膝栗毛 弥次喜多流離譚」

8月14日、八月納涼歌舞伎第三部『東海道中膝栗毛 弥次喜多流離譚』鑑賞。コメディ。

歌舞伎で本水を使った舞台は初めて観た。中央部分の人々が配られたのであろうビニールをがさごそ用意し始めてもしかして?と思った。唐組の芝居をちょっと思い出した。

踊り競べの場面で、『道明寺』や澤瀉屋の家の芸「猿翁十種」の一つ『小鍛冶』などから要素を取り入れてるのに感心した。

幽霊に化けた喜多八(猿之助)が仏壇から顔を出したり欄干から出てきたりして次右衛門を散々に脅かし、宙吊りになり連理引きで次右衛門を引き戻す場面は、同じく猿之助さんが演じた『天竺徳兵衛新噺 小平次外伝』の小平次や『色彩間苅豆』の累を思い出した。猿之助さんってほんとにこういう離れ業得意なんだろうな、演じてる時楽しそうだもん。

緑婆奈々夫人役の笑三郎さんが美しかったし、天照大神役の笑也さんはもっと美しかった。この二人はこういうゴージャスな役が似合うのかも。

弥次喜多の一行が疫病による不景気のために閉館の危機に陥っている歌舞伎座を救うために歌舞伎座に向かい、歌舞伎座を復活させるという面白おかしい筋なのだが、二年前、歌舞伎座が公演中止になったりこれから上演どうなっちゃうの?って不安になった時のことを思い出してちょっと泣いちゃった🥹

八月納涼歌舞伎第一部「新選組」「闇梅百物語」

八月納涼歌舞伎第一部『新選組』『闇梅百物語』鑑賞。

手塚治虫の漫画が原作の『新選組』は、「カラーン コローン」などの擬音が漫画そのままのフォントでパネルとなって登場したり、手塚作品のキャラクターがところどころに登場したりなど、遊び心のある舞台だった。私はあまり手塚作品を読んでいないのだが、昔手塚作品に親しんだ人は楽しめたのではないだろうか。

『闇梅百物語』は自分好みだった。百物語で一つ残った灯火を消すことになってしまい奥女中達に無理矢理手を引かれて連れて来られる、七之助さん演じる小姓・白梅が可憐で可愛らしかった。この小姓というのは少年ではなく、武家方の奥向きに仕える女小姓のこと。嫌がる女小姓を奥女中達が無理矢理引っ張ってくるのは『春興鏡獅子』にも見えますね。灯火を吹き消して気を失った白梅が顔を上げるとのっぺらぼうになっている、という怪談らしいエピソードを皮切りに、様々な妖怪変化達が登場する。日本の怪談の妖怪はおかしみのあるものが多く、私は好き。

狸と河童が源兵衛堀で七五調の台詞で傘を奪い合う様子は、作者三代目河竹新七のお師匠、河竹黙阿弥の『三人吉三』を思い出しました。思い出しませんでしたか?

千之助さんの新造の羽子板を使った振りも可愛らしかったし、勘九郎親子演じる読売のかっぽれも賑やかで楽しかった。

百物語、やってみたいけど、大勢集まって百話語るんじゃ時間がかかりそうな気がする。四、五人くらいでやれないものか。

シネマ歌舞伎「野田版・鼠小僧」

シネマ歌舞伎『野田版 鼠小僧』鑑賞。泣いちゃった〜。守銭奴の棺桶屋だった三太が、ひょんなことから義賊・鼠小僧ということになってしまい、騒動の中心に押し上げられていく物語。

 

歌舞伎座での上演は19年前。軽妙な言葉遊びと、勘三郎さんの喋りの芸、勘三郎さんをはじめとする名だたる役者陣の掛け合いやドタバタ騒ぎが面白くて、前半息もつかせぬ感じ。あの喋りは勘三郎さんにしかできないでしょうね〜。と思いきや後半は人情に訴えかけほろりとさせる感じ。この「言葉遊びの面白さ」は野田作品の特徴らしく、実は私野田作品初めてだったんですが、こんな感じなら野田秀樹の笑い好きかも。

 

私は二月大歌舞伎の『鼠小僧次郎吉』で河竹黙阿弥作の本来の鼠小僧を観ているので、元ネタが分かって楽しめた。時代物では名奉行として人気のある大岡越前守をあんな風にいじくり回しちゃうのが面白いし、それを実直で凛々しい雰囲気のある三津五郎さんがやってるのがまた面白い。いい味出してた。現在は中堅どころで武家の女房など実のある役が多い孝太郎さんも、しっかりコメディエンヌをこなしており好感を持った。扇雀さん・七之助さんも、素晴らしいコメディエンヌぶり。


裁きの場で三太が述べる、「正しい・真実のことを告発しても、お前達はこの三太の発言だと信じないが、鼠小僧の発言だったら信じるんだろう、そのような『誰が発言するか』という主体の肩書きや、鼠小僧に対する膨れ上がったイメージ・虚像、そういったもので判断するんだろう、それなら自分は、鼠小僧ということになってやる」という、裁きの場の聴衆や・観客の私達に突きつけられた台詞は、いかにも近代らしく、「鼠小僧」のような江戸の大衆にもてはやされた作品を換骨奪胎していて興味深いですね。

 

今気付いたのだが、主人公、そして與惣兵衛の孫に付けられた「三太」という名前は、サンタクロースと掛けているのだろう。劇中でもサンタクロースの乗るそりの鈴を思わせる音楽が聴こえたり、上部に飾られた幕にクリスマスらしい絵柄が描かれていたりしましたね。

大人っぽい服装を好むようになった話

あんなに好きだったロリータ系の服を全然着なくなり、欲しいとも思わなくなった。大人っぽい、エレガント寄りの服を着た時の自分を好きになり、そういった服を好むようになった。

 

おそらく、「こういう服が着たい」ということと、「どう見られたいか」「自分がどういう場で、誰の隣にいて、どうありたいか」という現実世界の中の自己イメージが、合致したんだと思う。

 

かつての「こうありたい」自己イメージって、KERAの「ノケモノと花嫁」のヒツジだった。背の高い吸血鬼とか、執事とか、パパとか、何か人外含むそういった者が傍らにいて、自分はそれに比してすごーく背が小さくてフリフリの服着てるの。

 

でもそういったシチュエーションってなかなか現実にそぐわない。もちろん、ロリータファッションの私を好きだと言い、それっぽく振る舞い、人形のように愛玩してくれる男性もいた。でもそういったロリコン男性って往々にして若かったり、収入が少なかったりして、社会的弱者であることが多かった。(もちろん桁違いの高収入でロリコン、という男性もいるとは思うが、私の好みである経営者層にはあまりいない気がする)

 

だから例えば、私がゴスロリっぽい服着てるのが好き、もっとそういう服着てほしい、と言われるけど、じゃあ買って、買ってくれたら着るけど、と言うと、うーん、それはちょっと、となるのだ。

 

エグゼクティブであるほど大人っぽい、知的な女性を好む気がする。私はそういう風に扱われることの方がしっくり来るようになった。具体的な自己イメージで言うと、陳腐だが、高級レストランのフロアで社会的地位のある男性にタイトなワンピースを着て寄り添って微笑んでいる感じだ。そういった格式のあるレストランやホテルのバーだと、ロリータ系の服はふさわしくなくて、大人っぽい服の方がふさわしいということになる。

 

子供っぽい服装をして、彼らに恥をかかせたくない、という思いもあるかもしれない。先日、靴を買う時にジルのパンプスがいいなと思ったけど、太いヒールに大きなビジューがデコラティブに散りばめられているのを見て、「◯◯さんはどう思うだろうか」と考えて、手に取ってたのをやめた。そういう思考をしている自分に、驚いた。そして当然だが、大人っぽい服装をしている今の方が、お金の入りは多くなった。

 

愛着の問題があるので、「幼くなければ愛されない」「子供のままでいなければ愛されない」という強迫観念もあったと思う。でも、おそらく、大人になっても愛してもらえるのだ。大人の私でも愛してもらえるのだ。このことも、服の好みの転換のきっかけとなる、大きな発見だった。

容姿に異常に執着する私がセラミック矯正を試みた話

私は前歯が大きくて出ているのがコンプレックスだった。別にそこまで病的に出ているわけでもなく、それでいじめられたことがあるわけでもないが、小学生時代男子に口を引いて笑った時の表情を真似されてからかわれたのをずっと覚えている。それ以来笑う時に思いっきり口を引かないように気を付けた。口を開けて笑うことに抵抗があって、意識しないで口を開けて笑うといつもこわばっているような顔になり、それが嫌でたまらなかった。いつも手で口を隠して笑っていた。結婚相談所とかの写真撮影で、自分のコントロール可能な最大限まで笑ってるにもかかわらず「歯を見せて笑って」「もっとイーッてして」としつこく言われるのでブチ切れそうになっていた。

 

お金ができて、裏側矯正を検討したが、上顎に金具を打ち込まなければならないと聞いてフェラできないじゃんと思ってやめた。また、矯正が終わってもマウスピースを付けておかなければならず食事のたびに外して歯磨きしてから付け直さないといけないと聞いて、日常生活に即して考えるとあまりにも非現実的だと思えた。

 

その後セラミック矯正というものを知った。50万のお金はなかったが、分割払いやリボ払いをしてでも、20代がもうそろそろ終わろうとしている今のうちにやっておきたいと思った。先行投資というほどではないが、20代のうちに、完璧な装備を整えておきたいと思った。


治療の当日は、もう自分の歯ではなくなるのだ、他人の歯(ではないが)になるのだと思うと現実感がなくふわふわした感じがした。これによって私の顔は完璧になるのだ、容姿のコンプレックスによる悩み苦しみが何もなくなるのだと思うとまるで自分が無感情無機質な存在になってベルトコンベアに乗って運ばれて行くような感じがした。これ以降は肌などメンテにのみお金をかけられるんだと思った。ずっとコンプレックスで苦しんできた自分の前歯だが、もう別れると思うと情が湧いてくるような気がした。

 

セラミック矯正ではまず自分の歯を削って、希望の形で仮歯というものを作って装着し、セラミックの本歯が完成したら、それを装着する。

 

仮歯を入れて麻酔がひいた後の自分の顔を見て、ショックを受けた。唇が変わっている。前歯が奥に引っ込んだせいか、上唇がつぶれて横に広がって口が全体的に大きくなったように見える。

 

そこまで出っ歯というわけではなかったため、いわゆる出っ歯の人が口ゴボになってるのがEラインの内側に引っ込むように、唇の形が変わるというのを想定していなかったのだ。

 

元々私は唇が若干外に向かってほんのり開き気味になっているような、幼くあどけないような唇をしていた。それが前歯が奥に引っ込んだせいで、上唇の子供がふてくされてるみたいにツンと外側にまくれ上がって山の部分が盛り上がったような感じがなくなって、平べったくなってしまった。それだけではない、よく見ると、下唇のぽってりした感じ、拳を顎に当てて上目遣いの表情をしているオードリー・ヘップバーンの写真(分かるだろうか?)のように下唇の幅が上唇よりも厚くなって四角く出ている感じがなくなり、上唇よりも奥に引っ込んでいた。よく考えてみると、大きめの前歯の下の部分で下唇が押し出されていたせいであることが分かった。それは私のぼにょんとした顔と合っていた。その口元があったからこそ、私はお得意のポーカーフェイスができ、小生意気な態度を取ることができていたのだった。

 

しかも口の周りが全体的にこけ、法令線のあたりに窪みが感じられるように思え、ゴリラみたいな感じになっていた。

 

笑った口元も想像していたように美しくはなっていなかった。笑顔の問題は、頬の筋肉や口の開き方によるものだと分かった。

 

そして気付いた。あの歯あってこその私の顔だったんだ。開いた唇からのぞく二本の前歯は、リスみたいで可愛くなかったであろうか。口元がコンプレックスであるがゆえに恥ずかしそうに俯いて笑う私は、可愛くなかったであろうか。

 

私は仮歯を元の歯並びに修正してもらうことに決めた。50万かけて自分の歯を削って、それで元の歯の形に人工の歯を作ってもらうなんてナンセンスかもしれないが、私のミスで自分の顔を失って、また50万かけて取り戻すと思えば安くない。先生に懇願していくらでも払うからと言おう、そのためには風俗でもなんでもしよう。

 

翌日すぐに病院に連絡を取り、その日のうちに予約を取った。先生に涙を流しながら訴えた。元の顔に戻してください。歯のことはどうでもいいので、元の唇の形に戻してください。私は元々理想の唇の形だったんです。

 

先生は対応してくれたが、ねじれだけでも治した状態にする?と聞かれた。左の前歯が微妙に外側に向かってねじれていたのだ。治すことによって唇の形に影響があるかはやってみないと分からないとのことだったので、とりあえず治した状態でと頼んだ。

 

その際に、麻酔が切れるまで二、三日時間がかかり麻酔が切れるまでは鼻の下の部分に血が流れてないので膨らんだような感じになっている、という説明も受けた。それで鼻の下が膨らんで上唇の上のラインがツンと尖ったような感じにならず、法令線のあたりに窪みができてゴリラみたいな感じになってるのだと分かった。

 

帰宅して、下唇は元の厚みに戻ったが、左の前歯のねじれがあったからこそ唇を閉じてもそこの部分に若干隙間ができて開き気味な印象になっていたんだと分かった。ねじれを治したせいで、唇がしっかり閉じた状態になってしまって可愛くなくなっていた。鼻の下の膨らみもなかなか戻らなかった。

 

前歯のねじれを戻してもらうべく、再び病院に電話をかけた。その日は月曜だったのだが、次に予約を取れるのは週末の土曜だと言われた。ほんとにその日まで空いてないんですか?顔が変わっちゃって困ってるんですけど。と思わず取り乱して抗議してしまった。

 

こういう時いつもやるように神様、と語りかけようとしたが、もう神様にも縋れなくなっていることに気が付いた。そうか、神様の作った形を変えたから、神様の庇護の元を離れたんだ。

 

顔が元に戻らなかったら死のうと思った。死ぬなんて大げさだとも思ったし、世の中の価値が美だけではないのも知っていた。私の大好きな恋人は、たとえ私の顔が変わっても私を愛してくれるであろうことも知っていた。でも、もし死ななければ、今まで美をこの上ない価値として重んじてきた生き方とつじつまが合わないと思った。

 

その週は、前半はマスクをして過ごした。可愛くないのなら私ではない、可愛くない私は…私ではない別の何者かだ。その週は美容関係の用事もパパとのデートも、何も手に付けられないような気がした。だって、これから私が、私として存続するかどうか分からないんだもの。それなりに愉快なこともあり、歯のことを忘れる瞬間もあったが、そのたびに、美しくないのに楽しい気持ちになるなんて不遜だ、と思い我に返った。マスクで顔を隠した今の私は、少なくとも「私」ではなく、もしかしたら来週「私」に戻らないかもしれない、名前のない中有に浮いた魂のような宙ぶらりんな存在に思えた。

 

私は仕事の都合で早めに出社するのだが、誰もいないお手洗いで全身鏡の前に長い間立ちつくし、泣きそうになりながら自分の顔を見つめて許しを乞うた。

ごめんね。もうしないから、元に戻すから、ゆるしておくれ。もし戻らなかったら…私は死のう。

 

私は悟った。いつか口元がコンプレックスであることを、武器にしていたということを。私は歯を見せて笑えないから、無意識の内に、口を閉じた状態の微笑でいかに相手を魅了させられるかを自分の中で極めていたということ。どうしても口を開けて笑った方がいいような場合でも、最小限の口の開きで、目の細め方、首を傾ける角度によって、一番効果的な表情を生み出していたということ。大笑いするような場合は、口を手で軽く覆いながら目を大げさにしわくちゃにして天真爛漫さを表現し、あるいは大げさに俯いてエロスを表現していたということ。

 

幸いなことに、予約の日が近付くにつれて鼻の下の膨らみが引いていき顔の下半分が正常な状態に戻っていった。昨日ねじれを戻してもらったので、数日のうちには元の唇に戻るであろうと信じている。


(8/26)

「脂肪と言う名の服を着て」

‪ネットの広告に釣られて安野モヨコ「脂肪と言う名の服を着て」を読んだ。摂食障害という共感できるテーマであり一気に読んだ。

主人公は太っていて醜く隠キャラな自分を「こちら側」、痩せていて美人で皆の中心的存在かついじめの主犯格であるマユミを「あちら側」と考え、ダイエットに成功した時に自分を「あちら側」の人間になれたと考えトイレで一緒になった女性に悪口を投げかけるシーンがあるのだが、ここで思わされるのは、人間は「あちら側」と「こちら側」に二分化できるものじゃないってことだ。それが最後の「あの子また繰り返すわね 心がデブなんだもの」というエステティシャンの言葉に表れている。「心がデブ」というのは、自分が綺麗だから外見で劣っている人間に対して優位に立っていると考え、何を言ってもいいと考えている人のことだ。

でも、この漫画読んで、また過食⇔拒食の壮絶な快感を味わいたくなった。

ちなみに私は、外見可愛いけど万年いじめられっ子で隠キャラだった。見た目とコミュ力とは比例しないのである。(ナルシスト)