下座音楽「ぼんぼんぼんの」

シネマ歌舞伎「怪談牡丹燈籠」を観てきた。伴蔵がお峰を殺す場面で、イヤホンガイドアプリの解説では江戸時代に流行したお盆の唄?のような、歌詞に「釈迦如来」という言葉の入ったのどかな下座音楽に合わせて、様式化されたゆっくりとした動きで殺しの場が展開するのが美しかった。陰惨な殺しの場と、一見それにそぐわないような美しい音楽が組み合わさるの大好き。そういう殺しの場だけを繋ぎ合わせて観たいくらいである。

シネマ歌舞伎「怪談牡丹燈籠」予告編。こちらの1:17以降に上記の下座音楽が流れている。
https://youtu.be/jNDEcCO6T1U?si=CkjrpsVo0AIcF0Xm


この、本編ではお峰殺しの場面で演奏されるお盆の歌のようなのどかな下座音楽、これがどうしても気になって調べてみたが、ネットには全く情報が出てこない。検索結果に、歌舞伎の「怪談牡丹燈籠」の別の場面の下座音楽を演奏しているYouTube動画がヒットして、ダメ元でその動画に対するコメントで投稿者の方に質問してみた。するとすぐに答えが返ってきて、『歌舞伎音楽集成』(杵屋栄左衛門著)によると、「ぼんぼんぼんの」という題名の下座音楽であり、歌詞は「盆々盆の十六日に」で始まり、「南無釈迦如来、手で拝む」が最後に来る、とのこと。
これを手がかりにさらに詳しくネットで調べてみると、江戸時代、江戸の町でお盆の夜に、子供達が列をなし、提灯を持って手を繋いで、「盆ぼんとても今日明日ばかり」「盆ぼんぼんの十六日に」などと歌いながら町々を練り歩いたということらしい。
子供達が列をなしてこのような歌を歌う風俗は、江戸や京都を含め全国の各地にみられたらしい。歌詞も色々なパターンがあるらしいが、そのうちの一つがこうである。

♪盆ぼん 盆の十六日に
お閻魔さまへ参ろうとしたら
珠数(じゅず)の緒が切れて 鼻緒が切れて
南無釈迦如来 手で拝む
手でも拝めば 足でも拝む

以下に文献からの引用を置いておく。

「七八歳より十五六歳位の一と群が盆になると夕暮より同じ年位の者七八名づつ一列となり年長のものは順々に跡に列して五六列をなし手を連ね竹の先きに紅ちやうちん又は切子灯籠を持つものもありて声張揚(はりあげ)て、『盆々ぼんの十六日にお閻魔様へ詣ろとしたら珠数(じゅず)の緒が切れて鼻緒が切れて南無釈迦如来手でをがむ手でおがむ』」(高砂屋浦舟『江戸の夕栄』)

「十歳以下三、四歳以上の子供男女打ち交りて、手に手をつらねて小提灯の美しく画をかきしをともし、『ぼんぼんぼんの十ウ六日に、おーゑんまアさまへまいろとしたら、数珠の緒がきれて、はアなおが切れて、なむしゃか如来手でおーがむ』と無心に憚る所もなく、声張り上げて歌いつつ、道路の中央(なか)、片端(はし〕の差別なく、ここかしこにうたいてあるきたり」(菊池貴一郎『絵本江戸風俗往来』明治38年

前述した下座音楽「ぼんぼんぼんの」は、この歌から作られているというわけだ。ネットには、わらべ歌としての「盆ぼん」の音源と、行事として唯一現存しているという「松本のぼんぼん」の音源のみ見つけることができた。(この行事から名前が由来している夏祭りの「松本ぼんぼん」とは全く別物なので、YouTubeで検索する場合は注意してください)

松本のぼんぼん
https://youtu.be/_MtvT-QeqXc?si=-xB3eQ6ev4VUeZ71

しかし、やはり下座音楽「ぼんぼんぼんの」の方が美しいようだ。おそらくこの哀調を帯びた盆唄を三味線を伴った下座音楽に変換するにあたって、しっとりした色気が生まれていると思う。