溝口健二『お遊さま』

溝口健二『お遊さま』鑑賞。

谷崎潤一郎の『蘆刈』の映画化ということで、溝口健二作品の中でも気になっていた。『蘆刈』は私の好きな作品。映像は昔のものらしくだいぶ荒くなっているが、谷崎文学の華やかな世界観を残している。

昭和初期の京都を舞台にしているとあって、京都の街並みや家屋の様子が雅やかで美しく、私の好み。特にお遊さまが音曲の会を開き、日本庭園の池に張り出した縁側で客や検校を招いて琴を弾いたりして、平安貴族の再現のように遊ぶ様子はことさら美しく、お遊さまの「所帯じみたことは一切できない」、(亡くなった夫との間に子供が一人いるにもかかわらず)浮世離れした人物造形を表している。

お遊さまはその名の通りただ遊ぶことの好きな無邪気な性格で、それは宿屋で慎之介に戯れかかるシーンでも表れている。そこでお静のいたたまれない様子に気付かない、少し天然で空気の読めないところもあるが悪気はないし、妹・お静を自分のそばに置いておきたくてお静の縁談を皆壊してしまうようなわがままなところもあるが、二人の苦悩を知って身を引くような根は純粋な性格なのである。私と似ている。私もお遊さまのような遊芸三昧の暮らしがしたい。やっぱ、これで、いいんだ。これで、いいんです。現代の世の中では私やお遊さまのような性質は批判されるけど、作品の世界、美の世界では燦然と輝かしてもらえる。特に谷崎は肯定してくれているから好きだ。お遊さまは決して落ちぶれることはなくて、再婚した先でも何不自由ない暮らしをし、変わらず音曲の会を催している。いわば「高貴」な「姫」なのだ。『桜姫東文章』の桜姫も色々ありつつも最後はちゃんとお姫様の座に戻る。なぜなら「高貴」だから、「姫」だからとしか言いようがない。お遊さまが変わらず優雅な暮らしをしていることは、慎之介・お静夫婦が商売に失敗して零落した暮らしをしている様子との対比でも強調される。

この作品の三角関係には、慎之介からお遊さまへの愛、お遊さまから慎之介への愛、お静から慎之介への愛だけでなく、お静とお遊さま姉妹の間の同性愛にも似た親密な関係が存在している。お静はお遊さまに対して崇拝にも似た愛情を抱いているから、お遊さまが幸せになるなら、と自己を犠牲にすることが喜びというのは真実なのである。しかし、一方で慎之介のことも愛しているので、心が引き裂かれて苦しむ。

このような一筋縄ではいかない複雑で耽美的な三角関係は『卍』など谷崎の得意とするところだし、唐十郎の『秘密の花園』でも同じような奇妙な三角関係が描かれているが、こういうのあるよね~~、世間の倫理や常識で割り切れないよね、と思う。